諦めつつ、ベストを尽くすこと

 どんな人のどんな性質にも必ず理由があるし、自分勝手に見える人の行動にもたいてい事情はある。だから、何が起きても、誰も何も悪くない。どれほど人が傷ついても、被害を受けても、孤独になっても、驚くほど誰も何も悪くはない。

 理不尽はどこにでも転がっている。

 人と人、人と社会との間で起こる悲しい衝突はすべて交通事故のようなものだ。車社会である以上交通事故がゼロになることはないのと同じように、人と人、人と社会との間で起こる衝突も決してゼロにはならない。
 僕たちにできることはただ、注意深く(賢く)運転して、事故が起こる確率を減らすことだけである。誰が悪いかを特定することに意味はない。

 自分がどんなに事故が起こらないよう注意深く人と(社会と)関わる賢明さを持っていても、相手が不注意であれば(賢くなければ)事故は起こる。
 そういうときも、相手の不注意を責めて「お前が悪い!」と言うことはできない。なぜなら、人の賢明さは、その人が生まれ育つ過程で与えられる条件にまるっきり由来するからだ。
 どれくらい恵まれた条件を与えられて生まれ育つかは、人それぞれ異なっている。だから、自分は悪くないからといって、相手を批判することは一切できない。

 何が起ころうが、すべて仕方がないことだ。諦めるしかない。

 そういった「誰も何も悪くなくても、人は傷つくし、被害を受けるし、孤独になることがある」という理不尽さを受け入れて、それに反抗することを諦めて、それでもなお生きていかなければならない。人と、社会と関わっていかなければならない。
 悟りの境地で(?)、できることを淡々とすること。自分の脳みそで考え自分自身が用意した規範に従って、何が起きてもそれを受け入れると覚悟しつつ、後悔しないようにベストを尽くすこと。できる限り賢く、注意深くなること。

 それしかない。

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