今、お酒を飲んでいます。家です。最近ブログで文章を書いてないな、と思って書いています。書くことないのにむりやり書くのもなんかあれだしな、とか、書くのめんどくさいな、とか、どうせ書いてもたくさんの人に読まれるわけではない、とか。ブログを更新していない理由を思い浮かべてみればいくつか思い当たりますが、結局のところブログを更新してない理由なんて一つには決まらないわけです。より正確に言えば、ブログを更新してない理由なんて「ない」わけです。そこで例えば誰かが仮に(そんな人はまわりには一切いないし、そんなこと言われる筋合いは全くないし、言われてもなにも思わないけど、書きたいことの例としてむりやり持ってくると)「最近ブログ更新してねえじゃねえか、三日坊主かよ」みたいなことを言ってきたとして、おれはそれに答えようとしたとき、上に挙げた理由のどれを言うべきだろうか? 理由が「ない」のだとしたらなにも言わないことになるが、そんなんだったら、誰のなんの問いかけにもなにも答えないことになってしまうんではないかなあ。おれのする・しないほとんどすべての行動には、理由なんてないのかも。でも他人は(そして自分も)おれのする行動の理由(動機)についてあれこれ推測するだろう。少なくともおれは他人の行動の理由について、そんな必要ないんじゃないかってくらい推測してしまう。そして勝手に嫌気がさすのだ。場合によっては距離を置いてしまう。本当に勝手である。こういう推測が、ときどきわずらわしくてたまらない。こういう推測をされてることを想像するのも、うっとおしい。そしてこういう推測をしなきゃいけない人間関係は結構つらい。心が安らぐことがない。こういう推測をしなきゃいけない人間関係しか持たないとき、人はどうしようもなくひとりである。
 正直に話すためには、ものすごくたくさん考えなければいけない。考えれば考えるほど正直になれる。逆に言えば、百パーセント正直であることはできない。話すときは必ずうそをつかなければいけない。たくさん考えていくらか正直に話せるようになれば、孤独は幾分マシになると思う。この文章で書いてるようなこと(動機を推測するとかうんぬん)が共有されるだけでもかなり違う。ほとんどの人は、中途半端に賢くて利己的で(自分のことを含む)、でも自分のそういった偽善とかエゴには無自覚である。無自覚なんだから罪はない。だけど、相手は推測をする。自分も推測をする。中途半端に賢いからだ。中途半端に賢い人は、どこまでも賢くなってたくさん考えて自分の偽善とかエゴにより自覚的になって正直に話すことを覚えなければ、一生ずっと孤独のままだ。孤独に敏感な人にはとても耐えられるものではない。
 誰かのことを嫌悪したとする。しかしその後ですぐに、自分が嫌悪したその「誰か」の生い立ちとかコンプレックスに思いをはせて、どうしようもなくなる。やるせなくなる。驚くほど誰も悪くないわけで、それなのにおれは人を嫌悪してしまうわけです。そして関係を切ったこともある。そういうのって、ほんとにやるせなくて悲しいね…とか書いてみたところで(!、話は変わる)、「悲しいね…」とか言ってる自分はかなり恵まれてるしたいした問題も抱えてないわけで、結局のところ「悲しいね…」とか言ってる自分の優しさとか博愛なる気持ちを他人に見せびらかしたいだけなのではないのか? と、自分を疑わなければならなくなる(エゴ発見!)。しかしこれはきっと、エゴだと気づく前は本当にそう思ってるんですよ。多分きれいな心でそう思ってるんです。でも、エゴじゃないのか? と疑った瞬間に、「エゴだったかも。少なくとも、エゴではなかったとは言い切れない」というあたりまでくるんです。じゃあ誰かが「それはもうあからさまにエゴやん!」とおれからすれば見えてしまうようなことをしているときも、その人にとっては真剣な博愛なる気持ちでなにかをしてることがあるわけ。彼らは単に、自分のことについて深く考えず(エゴではないかとは疑わず)、無邪気に振る舞ってるだけかもしれないわけ。つまり、単に賢くないというだけかもしれないわけ。おれは多少賢いから、他人からエゴだと思われないようにふるまうことができるだけかもしれないわけ。他人からどう見られるかを気にしてる分、おれのほうがよっぽどエゴでは? とか思ったりもする。
 最後に。こうやってうだうだ書いている自分、いろんなことを考えている自分に酔っているだけかもしれない。少なくとも、そうではないとは言い切れない…! (ええと、つまりそういうこと! 分かってほしい、泣)

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