タイピングの練習・2

 彼はジュリアに母が姿を消したときのことを話した。ジュリアは目を閉じたまま、身体が窮屈だったのか、ごろりと寝返りを打った。
「その頃はとんでもなくひどい子だったみたいね」寝ぼけて聴き取りにくい口調で彼女は言った。「子どもってみんなそんなものよ」
「そうだね。でもこの話の本当のポイントは……」
 息遣いからして、彼女はどうやら再び寝入ったようだ。聞いてくれるなら、是非とも母の話を続けたいところだった。どんなに思い出してみても、母は際立った女性ではなかったし、まして知的な女性でもなかった。しかし彼女には一種の気高さ、純粋さがあった。それはひとえに彼女が自ら用意した規範に従って行動したからだった。彼女の感情は彼女自身のものであり、外部からそれを変えることはできなかった。実を結ばない行動は、そのために無意味であるなどとは、夢にも思わなかっただろう。誰かを愛するなら、ひたすら愛するのであり、与えるものが他に何もないときでも、愛を与えるのだ。チョコレートの最後の一かけらがなくなってしまったとき、母は我が子を胸に抱きしめていた。それは無駄なことであり、そうしたからといって何も変わらない。チョコレートが新たに出てくるわけでもなく、我が子の死や彼女自身の死が回避されるわけでもない。しかし彼女にはそれが自然だったのだ。船に乗っていた避難民の女性も小さな男の子を自分の腕でかばった。銃弾に対して紙切れ一枚同様、まったく無力であるにもかかわらず。党がどんな恐ろしいことをしてきたかと言えば、単なる衝動、単なる感情などとるに足らないものであると思い込ませる一方で、同時に、物質世界に対する人間の影響力を根こそぎ奪ってきたのだ。ひとたび党の支配に絡め取られたら最後、何を感じようと感じまいと、何を行おうと行うまいと、文字通り、何ら違いがなくなってしまう。蒸発ということになれば、その人の存在も行動も二度と話題にならなくなる。歴史の流れからきれいさっぱり取り除かれてしまう。それでも二世代前の人々にとっては、こうしたことはそれほど重大視されなかったのだろう。歴史を変えようとまではしていなかったのだから。かれらは個人の引き受ける忠誠義務というものを疑うことなく信じ、それに従って行動した。重要なのは個人と個人の関係であり、無力さを示す仕草、抱擁、涙、死にゆくものにかけることばといったものが、それ自体で価値を持っていた。そうだ、プロールたちはそうした状態のままに留まってきたのではないか、不意に彼はそうした思いに促われた。かれらは党や国や観念に忠誠を尽くしたりはしない。お互いに忠実であろうとするだけだ。彼の人生で初めて、プロールたちへの軽蔑の念が消え、かれらはいつの日か急に活気づいて世界を蘇生させるかもしれないが、当面は単なる不活性な力に過ぎないという考えを改めた。プロールは人間性を保ってきたのだ。内側まで無感覚になってはいない。自分にとっては意識的な努力によって再学習しなければならないものとなった素朴な感情を、かれらは手放さないでいたのだ。こんなことを考えているうちに、どんな関連があるのかよく分からないが、彼は数週間前のことを思い出していた。舗道に転がる手首のところで切断された手を見つけて、彼はそれがキャベツの芯ででもあるかのように溝のなかに蹴り込んだのだった。
「プロールたちは人間なんだ」彼は声に出して言った。「ぼくたちは人間じゃない」
「どうして?」ジュリアが言った。また目を覚ましていた。(ジョージ・オーウェル『一九八四年』)

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