すべては退屈しのぎ(?)

 「すべては退屈をしのぐためにあるのだ」というひとつの考えが、ちょっと前から自分の中にあって、それをふと思い出すたびにちょっとだけ悲しくなるというか、なんというか…。すごくやるせない気持ちになるのだ。(僕は頻繁にやるせない気持ちになっているな。)

 人間の根底には恐ろしい退屈さがあるのだ、と仮定してみる。
 人間には、悲しいでも寂しいでもない「ただひたすらに退屈」な状態が、なによりも先にあるのだ、として考え始めてみる。

 必死になって(死にものぐるいで)恐ろしい退屈さから逃れるためだけに、いろんなことを思いついては飛びついて、飽きて退屈になったら他のもの、他のものへと探し回る。本を読むのも、音楽を聴くのも、働くのも、戦うのも、話すのも、愛するのも、そして考えるのでさえ、退屈さから逃れるためにすることに過ぎないのではないか?(あり得ない話ではない。)
 例えば、「人を愛する!(恋するでもいい)」あるいは「大切な人がいる!」というのも、退屈が耐えられないからそういうのに真剣になってるだけなのかもなあ、と妙に冷めた目で見てしまうのだ。愛してるんではなく、愛してるということにするわけ。それを自分で自分に信じ込ませる。愛に(恋に)夢中になってる間は、退屈から逃れられるから。
 「将来の夢は〇〇です!」と顔を輝かせるのも、そういうことにしておかないと人生が退屈で死にたくなるからなのかもしれない。必死になって自分で自分に言い聞かせるのだ、「お前の将来の夢はこれだ!」って。夢に夢中になる間、夢に向かって努力してる間は、退屈から逃れられるから。

 つまり、それだけ…。愛がどうとか夢がどうとか、そういうのではない。すべてはいかに退屈から逃避できるかに集約されてしまう。キラキラしたもの(愛とか夢とか)に向かっていくのではなく、単に退屈さが耐えられないだけ。そういう消極的な動機がまずあって、なにかに積極的になる自分をでっち上げてるのだ。そうすれば、退屈から逃れられるから。

 なんて、悲しい考え…!

(注意!: 考え方はひとつではない。僕はこれを、考え方のひとつとして持っていますというだけで、これを信じているわけでは決してない。)

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