人びとの憎悪が増幅されていく

 世の中にあふれている「ある特定の人たち」に対する嫌悪や憎悪といったものを、あの手この手たくみに言葉を使って、せっせと理屈をこねて、さらっと正当化してしまう賢い人たち、というのは一番危険な存在である。そういった人たちは、直接的に暴力をふるったり、感情に任せて人を侮辱したりする人たちよりも、はるかに大きな影響力を持ってしまうという点で、いっそうたちが悪い。

 そういった人たちがしていることは、人びとの中に眠っている、本来ならば自制しなければならない恥ずべき憎悪を、外に放ち、公然と「特定の人たち」を憎悪してもいいという風潮(まずはネット上で、次第に人との会話で、さらにはヘイトスピーチで)を助長することである。しかもそれが、世間にこびを売るためであったり、自分は優れた存在であるということを宣伝したりするための、どこまでも利己的な動機によるものなのだからおぞましい。そして憎悪は、まるで「赤信号みんなで渡れば怖くない」といった具合に、その醜悪さが人びとにあまり意識されることなく加速していくのだ。

 それは、暗い時代の、悪い政治体制で行われてきたことと、その規模は違えど、まったく同じことである。「特定の人たち」に対する人びとの憎悪を、それを正当化することにより、雪だるま式に増幅させているのだ。その延長線上にあるのは「集団的な迫害」である。自らの醜悪さと残酷さに人びとが気づいたときには、もう何もかもが手遅れになってしまっていることだろう。どこから自分たちは間違っていたのだろう、と。

 そこで僕たちは、そういった危険な言説を耳にするとき、まず以下の点に気をつけなければならない。第一に、言葉ではどうとでも言えてしまうもので、間違ったことでも正当化してしまうことができる。第二に、人間はその欲求として、自分の中にある負の感情を正当化してくれる言説には、それがたとえ見かけ上しか正しくないとしても、喜んでまっすぐに飛びついてしまうものだ(なぜなら、これでもうこれまで抑えてきた憎悪を外に放ってもいい、自分の感情は良くないものであれ間違ってはいないし、間違っていないとなると良心の呵責を感じる必要もない! というわけであるから)。

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