社会的責任論を再考する(犯罪者は悪いのか?)

 自由意志が存在するとはあまり思えない。この意見はずっと変わっていない。私が何かをしようと意志するとき、自由に選択してそれを意志したのだと脳は錯覚するが、実際は必然的に意志させられている。何によってか? たとえば、時代や場所に依存する社会の価値観、その場その時の状況、生まれ育った環境、これまで見聞きしたこと、経験、無意識、遺伝、などによって。人格はどこからやって来るのか? いまある「この自分」の人格が形成されるにいたった原因をさかのぼって探れば、必ず、自分ではないものに帰着する。私の人格を形成したのは、私以外のもの(私以外のすべて?)である。私は自分の人格形成に一切関与していない。ロールズの「無知のヴェール」ではないが、私は私以外の誰かでもあり得たし、その確率は同様に確からしい。

 だとすれば、罪の概念と罰の正当性はどこから生じるのか? そういう疑問が浮かんでくる。自由意志がないとすれば、犯罪の責任をその加害者に帰することはできない。加害者は自由に意志して罪を犯したのではない。必然的に意志させられたのだ。犯罪以外の選択の余地が彼にはなかったのだ。と、そういう解釈になるからである。もしそれが本当だとすれば、罪の概念と罰の正当性は、道徳的な償いのために生ずるのではなく、最大多数の最大幸福のために生ずると考えるよりほかにない。刑務所に収容される犯罪者の犠牲のもと、それ以外の一般市民の自由と安全は成り立っているのだ。被害者は事件の犠牲者だが、犯罪者もまたこの歪んだ社会の犠牲者である。私たち一人ひとりはその社会の一員であるから、犯罪とは一見無関係に思える私たちにこそ、その責任の一端はあると言わねばならない。

 このような考え方は、私たちの常識的な道徳感情を満足させないかもしれない。どんな凶悪な人殺しにも罪はない、ということになってしまうからだ。しかし、感情を満足させるために、ものの見方を恣意的に選んではいけない。私たちは、常識的な道徳感情より一段高い、善悪の観念を模索すべきである。誰かが犯罪の責任を負わなければならないなら、私たち一人ひとりが少しずつそれを引き受けるべきだ。社会に悲惨な事件が起こったとき、私たち一人ひとりにその原因があると反省すべきだ。完全な善人などこの世にいないから、これまで悪いことをしたことは一度もないし、すべきことを怠ったことも一度もない、と主張できる者はいないはずである。

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