自己正当化の誘惑(日ごろの思考)

 ものを考えるさいの姿勢には、二種類ある。一つは、公平にすべてを考慮に入れて吟味する、真理(という言葉は大仰な響きだけれど)に仕える姿勢、もう一つは、自分を正当化するため、「自分にまつわるものは正しいが、それ以外のものはどこか間違っている」と言ってのける、自己に仕える姿勢である。たとえば哲学者が、哲学を擁護したり称賛したりするのはある意味当たり前で、たとえそれがもっともらしい理屈によって導かれているとしても、どこか不誠実な部分があるのではないかという疑念は残る。それは先の二つ目の姿勢、自己正当化の欲求を満たそうとする姿勢が含まれているのではないか、という疑念である(かの偉大な哲学者プラトンが導き出した結論を考えてもみよ!)。もっとも、哲学者よりも言葉を用いるのが下手くそな私たちが、そんな疑念を差し挟んだところで、簡単に言いくるめられてしまうのがおちだけれど。

 また当然、これは哲学者に限った話ではなくて、すべての人間がものを考えるさいに頭の中で起こってしまうことでもある。どんなに意識して取り除こうとしても、どうしたって避けられない、それほどこの「自己正当化の誘惑」は大きい。私自身とて、口が裂けても「私は自分を正当化することなく、正しい道のりでものを考えている」などと言うことはできない。もし誰かに「あなたがそんなことを言うのは、あなた自身のため、あなた自身の立場を大きくしたいからにすぎない」などと言われたら、私は「一番の泣きどころを突いてきましたね。図星ですよ! 私としては十分気をつけているのですが、それでも足りないようです。私の頭の中でじっさい何が進行しているか、それは私自身にも分かりません」としか答えられないだろう(もっとも、私はこう見えて、本当に気をつけているのである。できる限りの努力はしているつもりだ……)。

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