嘘をつくことなしに自分について述べることは不可能である。どんなにごまかさないよう努力しても、どこかで自分に都合の良いように物事を解釈し、心の状態を改ざんしてしまう。言葉は自分を宣伝するための道具でしかなくなる。好きなこと、感じること、思うこと、考えること、すべて心のあるがままを記述することができたらどんなにいいだろう。だけどそれはどうしたって不可能なのである。「きみに喋るときはいつでも、今だってそうだが、ぼくが口に出しているのはぼくの考えそのものではなくて、きみに印象を与えて反応を起こさせるようなことなんだ。ぼくらの間でさえこのとおりだぜ——ごまかそうという動機がもっと強ければ、いくらだってこういう事態になるぞ。じっさい、人間はこういう点にはまったく慣れっこになっていて、とうていわかるわけがないのさ。言葉全体が嘘をつくための道具なんだ」。

 ……してみると、このブログもやっぱり、ただ自分のことを読者に印象づけようとするだけのがらくたという感じがしてくる。ぶっちゃけいつでもそんな気がしています。かつてツイッターをしていたときには特にそれが嫌で、いつも自分のツイートにいかがわしさを感じていました。それで私はここ数ヶ月、できるだけ文章から我を取り除くよう努力してみました(まったくきりがないのですが)。お喋りだった中高のときの私は、そのときの友人と会話するときにしか残っておらず、いまでは黙っていることがベースになってしまいました。じっさい声を出さずとも、明るい表情とジェスチャーをしていれば誰も私を怪しい人間だとは思わないのです。あとは「ありがとうございます」と「すみません」をしっかり言えればもう言うことなしです(これに気づいたとき、そうか話さなくていいんだと思い、とても感動したことを覚えています)。

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