心の動きははかり知れない。感じることはおろか、考えることすらもそうである。いまこの瞬間には気分は晴ればれとしていて、なにもかも赦すことができる(きっと赦してもくれるはずだ)、そしてすべてを愛することができる、という情熱を心のうちに感じているとしても、それを口に出して宣言できるほどの勇気はない。明日になればまったく変わっているかもしれないからである。この心の動きは間違いなく私のものだけれど、それを決めているのは私ではないのだ。こういう心でありたい、ということに迷いはないけれど、そのような理想とはべつに、現実としての心の動きがある。目で見えるこの世界の現実ともまたちがう、私たち一人ひとりが対峙している心の現実というものがある。きれいな心でいるためにはさまざまな条件が必要で、その条件の数だけ人は未熟であると言うことができる。

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