自意識について(再び)

 僕は、なにかを好きだとダサいとか、なにかを好きだとダサいとか言ってる奴らこそダサいとか、そういうことをたくさん喋ったり考えたりしたあげく、頭がパンクしてしまった。
 どうにかこういう煩わしさを回避できないだろうかとあれこれ考えた結果、ひとまず黙ってしまうことにした。(それが賢明かどうかはさておき…。)

 なにを好きだとか、なにを目指してるとか、どんな地位にいるかとか、どんな思想を持っているだとか、そういったことを表明することによって、空っぽな自分を“味付け”してるみたいな気分になりたくはない。あいつは空っぽな自分を“味付け”してるんだな、と思われたくもない。
 それから、なにを好きだとか、どんな思想を持っているかとかで、自分の印象を下げてしまうことがある。嫌悪を持たれることがある。実際これまで僕も、そういう理由から他者に嫌悪を持ったことがある。
 が、できる限りこれからはそういうことを一切やめにしてしまいたい。だから僕はなにも表明しないし、誰かがなにかを表明してもできるだけフラットな気持ちでいるよう、努めることにする。

………

 僕は、自分の発言によって(意図せず)他者の自意識を膨らませることがこれまでにたくさんあったのではないかな、という反省をしている。
 それと同時に、あれこれ発言することで自分の自意識も膨らんでいって(発言は評価されるわけだから)、自分をものすごく疲れさせてしまうことも分かった。
 だからこれからはたくさん黙ろうと思ったのだ。自分の思ってることや考えてることは、それほど表に出す必要はない。しかし、それでもちゃんとなにかを思ったり考えたりすることができるのであれば、という条件つきで。
 (思ってることや考えてることを表に出すことなく、なにかを思ったり考えたりするためにはそれなりの訓練が必要なのである。だからブログには書いてるわけです。でもツイッターでは黙ろうと思った。人前ではこれまでもそんなにたくさんは喋らなかったからいいんだけど。)

 自意識を抱えながら、同じように自意識を抱えてる人となにかが分かり合えればいいんだけど、その人からもどう思われるか考えなきゃいけないし、その人に対してもなにかを思ったりしてしまうから、やはり人と人とが仲良くなることは(僕にとっては)とてつもなく難しい。(こういう文章を書いてること自体が、障害になっていそう。)
 一つ一つの自分の発言やふるまいや行動に対して、それで良かったのだろうかと不安になりながら(間違っていた! と分かって、それを乗り越えながら)進んでいくしかないのだろう。
 自意識に関する煩わしいあれこれを考えることなく、気楽に人と仲良くなれたりしないもんなんだろうかと思うけど、多分それは無理なんだろう。これからもずっと自意識がなくなることはなく、ときどき自分を苦しめるはずだ。

 と、ブログではこういう気難しいこと(自意識をむき出しにしたような文章)を書くけど、実際に人と会うときはもっとスマートに(?)、クールに(?)、自意識なんか微塵も感じられないくらい平然としていたいものです。ふふん。

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