個人的な体験 と それを抽象化する/しないこと 1

 人の価値観、ものの見方、「考えていること」は、その人がこれまでにしてきた「体験」に影響を受けている。
 体験とは、なにかを見ること、聞くこと、人と会って話すこと、どこかに行くこと、どんな両親を持つか、生まれ育った土地、どんな学校に行ってるか、どんな生活をしているか、なんて本を読むか、なんの仕事についているか、忙しいか暇か……などといった、挙げればきりがないほどたくさんの「原因」のことだ。
 これらの原因が、その人の価値観、ものの見方、「考えていること」を決定する(原因と結果)。ひっくり返せば、それらの原因が違うから人は違う価値観を持ち、違うものの見方をし、違うことを考える。つまり「違う人」(=他人)なのである。

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 体験から得られる感情を共有することで、人と人とは「分かり合う」ことができる。

 同じ体験をしていれば同じ感情が得られるため、人と人とが分かり合うことはそこまで難しいことではない。例えば、同じ職場で同じプロジェクトに参加している人どうしであれば、そのプロジェクトを遂行するにあたって感じる喜びや苦しみを分かり合うことができる。
 こういった体験を「集団的な体験」と呼ぶことにする。同じ集団に属している人どうしで分かり合いたければ、集団的な体験を用いればよい。

 しかし、集団的な体験に頼って人と人とが分かり合うことには、欠点や限界がある。
 まず、集団的な体験に頼った「分かり合い」は集団内部でしか適用できないため、集団に属していない人たちと集団との間に高い壁を作ってしまうということ。すると、集団の中にいる人は集団の外にいる人と分かり合う可能性を潰してしまうことになる。また、自分がなんらかの理由で集団から外れたとき、誰とも分かり合うことができなくなってしまう。
 そして、集団的な体験なんてものは人が体験することのごくごく一部にすぎないということ。人が持つ体験のほとんどは集団的な体験ではなく「個人的な体験」である。だから、個人的な体験を用いることなくして、人と人とが「深く分かり合う」ことはおそらくできない。

 したがって、個人的な体験から得られる感情を「正しく(!)抽象化する」ことによって人と分かり合うことを考えなければならない。

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