「大きなもの」・人は弱くてもろい

 人は誰でも、「大きなもの(システム、社会、組織)」の前では、弱い。どんなに力の強い者も、お金持ちも、独裁者も、その人ひとりだけを取り上げれてみれば、とことん弱い。だから人は組織する。一人のままでは必ず負けてしまうからだ。

 組織するためには、それなりの形式が必要になる。名前が必要になる。旗が必要になる。ルールが必要になる。スローガンが必要になる。
 しかし、そうやってできあがった人の集まりはいずれ、とても硬直的で、画一的で、体制的で、想像力の入り込む余地のない「大きなもの」となり果てる。「大きなもの」は人間ではないが、それ自体で意志を持ち人々を従わせるようになる。
 最初は一人ひとりの意志の集まりであったものが、だんだんと「大きなもの」の意志に従う人々の集まりになっていくのだ。「大きなもの」の意志に従う人々は、空っぽで、想像力の欠落した、考えることをやめた、うつろな人間である。

 国家も「大きなもの」だし、国家を打倒するべく組織されたものもやがて「大きなもの」となってしまう。腐敗した「大きなもの」に勝つために組織した「大きなもの」もやがては腐敗するのだ。だから学生運動の結末は学生と学生の殺し合いだった。体制側はもちろん体制的だが、反体制側もりっぱに体制的なのである。
 また、一部の子どもにとって、学校は耐えがたいものである。それは、学校が「大きなもの」であり、先生が「大きなもの」の一部になることを自分に強要しているように見えるからだ。一部の先生は、考えることをやめた想像力のない人間である。彼らは子どもに対して(というより誰に対しても)不誠実である。

 人が人を傷つけるとき、殴るとき、殺すとき、傷つけられた(殴られた、殺された)人は被害者であり、傷つけた(殴った、殺した)人は加害者である。
 しかし必ず、その背後には「大きなもの」の意志がある。傷つけた人は「大きなもの」の意志に従っているだけであり、なぜ「大きなもの」の意志に従っているかと言えば、一人のままでは弱くて負けてしまうからだ。その点で、傷つけた人も実のところ被害者であり、「大きなもの」が加害者である。
 つまり、傷つけられた人と傷つけた人、ともに「大きなもの」の被害者なのである。一人の人間が悪いということはあり得ない。正確に言えば、誰も何も悪くはない。

 戦時中の兵士は敵を殺すが、それを拒否することはほとんど不可能である。「大きなもの」の意志がすなわち自分の意志だからだ。
 学校の先生一人ひとりは、文科省や親たちやその他の先生、そして子どもたちとの間で板挟みだ。一番弱い子どもに対して不誠実であっても無理はない。

 一人ひとりはみんな「大きなもの」の前ではもろく、なされるがままになる。その結果、人を傷つけようが、殴ろうが、殺そうが、彼らは何も悪くはない。ただ、愚かで、考えることをしない、想像力の欠落した人間であるというだけだ。そこでたくさん考え、想像力を働かせたとしても、「大きなもの」と人との間で板挟みになって、自分が壊れてしまうんだから仕方がない。
 人は弱くてもろい。

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