私たちが一致するとき

 私はいまでは、自分の中にある感情と思考のどれ一つをとっても、それが私独自のものであるとは思わなくなった。私が心の中で感じることはどれも、ほかのすべての人間がすでに感じたことのあるもの、まさに感じつつあるもの、これから感じる可能性を秘めているものである。考えることについても同様である。

 私たち一人ひとりが互いに異なっているのは、与えられる環境あるいは影響がそれぞれ異なっているので、異なる性質が引き出され誇張されてしまうためである。しかし、私たち人間はみな、もとをたどれば同じ場所から来ているのだと私は信じている。正しいやり方で心の準備をするのであれば、私たちは誰とでも見事に一致することができる。「世界中にいる傷ついた人びとの/心が一致しあうとき/一つの答えが見出されるだろう/『そう成りますように』」(ビートルズ「レット・イット・ビー」)。

「相手の立場に立って考える」という言葉がある。もしも私たちが、完全に相手の立場に立って考えることのできる、完全な知性と想像力をそなえているならば(それができるのは神様ただ一人だけだろうが)、いやがおうでも互いに慈悲深くならざるをえないだろう。だけど私たちはしょせん人間であり神様ではない、そこまでのことを期待するのは無理である、と言う人がいるかもしれない。それはもっともな意見である。

 しかし、その考えはどうか、自分のいたらなさの言い訳に使うのではなく、他人のいたらなさを受け入れる理由として使ってほしい。そうしてこそ、言い訳ではなく心によって、自分のいたらなさをも受け入れることができるようになるのだ。互いのいたらなさを受け入れ、赦しあうことによってのみ、人びとの間にある平和、さらには一人ひとりの心の平和が生まれてくるのである。

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