人間の心のはかり知れなさ

 人間の心のはかり知れなさについて考えるとき、私はいつも驚きと感動を覚えずにはいられない。他人の心についてはいまさら言うまでもないことだが、自分自身の心のはかり知れなさについても、やはり同じことが言えるのである。ためしに、過去に自分がした行動(できるだけ突飛なもの)を一つ選んで、その原因が何だったかを探ってみてほしい。おそらく、二つ以上の意図がとても複雑に絡みあっていたことに気づくはずである。

 たとえば私たちは、仲直りするつもりでできるだけ穏やかに話し合いを始めたとしても、どういうわけか最終的に、とことん悪口を浴びせあう結果に終わってしまうことがある。どういった話の流れで、どういった心の動きで、自分の意図していた反対の結果になってしまうのか、いくら考えてみても理解することはできないだろう。あるいは、もはや愛しているのか憎んでいるのかも分からないような相手に、困っているときの援助の手を差し伸べることがある。援助の手を差し伸べようとするまさにその瞬間、相手をこっぴどく中傷することもできるわけだが、紙一重のところで憎しみではなく愛が発揮されるのである。

 このような曖昧な心の動きにふり回されながら、私たちは互いに影響を及ぼしあって生活しているわけだが、そんな中、たとえば「あなたはなぜそんなことをする気になったの?」という質問を投げかけられることがある。いや、投げかけられなかったとしても、私たちはいつもそう質問されるんではないかとびくびくしていて、行動しながら同時にその言いわけを考えているかのようである。このような質問にはすぐに答えられるものではない! どうかじっくり考えさせてほしい、できるだけ正直に話すためにはどうしても時間が必要なのだから、と言ってしまいたくなるのである。しかも、その「じっくり考える」にしたって、日頃から考える訓練をしている者でなければ、「内省」とはどういうものかを知っている者でなければ、できない性質のものなのである。

 私たちはたぶん人を殺してしまったときでも、人を殺すその最後の最後の瞬間まで、自分がまさか本当に人を殺してしまうことになるとは想像もつかないのだろう。それでいて、よくよく考えてみれば、自分はいつか人を殺してしまうであろうことに、もうずっと前から気づいていたような気さえしてくるのである。人間の心とはどういうわけか、それほどまでにわけの分からないものであるらしい。「いや、このキリストを売った男を非難するのは、もうすこし待とう、こうした酔っぱらいの弱い心の中に何があるかは、神のみの知るところだってね」。

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