「真実の自分」と「混沌」の狭間で

「自分が考えていること・感じていることはこうかもしれない、いや、ああかもしれない」とひたすら迷っているうちに、僕は、ほとんど何の意思表示も感情表現もできなくなってしまう。だから黙ってしまうし、無表情になるし、何の行動も起こせなくなるのだ。すると、他人が求めている会話のリズムや即決即断に応えることができず、ただ、そういう自分が人前に出ていることを恥じるだけになってしまう。

「自分の考えていること・感じていること」に固執するのをやめてしまって、「他人が期待していること」「その場が盛り上がること」を重視して話したり、表情を作ったり、演技したりすることは、一つの好ましいやり方だろう。そしてこれは、ほとんどの人が(意識的であれ無意識的であれ、上手であれ下手であれ)やっていることでもある。

でも僕は、そういうことをできる限りしたくないのだ。そういうことをするくらいなら、誰とも会わない方がマシだと思ってしまうくらいである。なぜなら、演技をすると寂しいからだ。また、演技をすると真実の自分というものが少しずつ埋没して、最後なくなってしまうと思うからだ。なくなってしまえば、もう二度と、真実の自分を自分の中から引きずり出して他人と接することができなくなるだろう。それは、なんだか、恐ろしいことであると僕は思う。

しかし、僕が「自分の考えていること・感じていること」に固執してこうもうまくいかない理由もだいたい分かっている。それは、実は、僕は「本当のところ」では、何も考えていないし、何も感じていないからだろう。つまり、さっき書いた「真実の自分」といったものは、埋没するしない以前に、そもそも存在しないのかもしれないということである。

それは「人間の持つ混沌さ(自分と他人)」で書いていることとも関係している。人間は確かにいろんなことを考え、いろんなことを感じもするが、それはどれも断片的で、統一性がないのである。それを僕は「あらゆるキャラクターを自分の中に住まわせながら、あらゆるキャラクターが次々に『個人』を乗っ取っていく状態」と表現し、さらにそこから、人間の中にあるのは「混沌」である、としている。秩序ある、「真実の自分」とも言うべき、「本当のキャラクター」といったものは、どんなに探しても見つけることができないのだ。

しかし、ここで僕は「ああ、そうか、僕は本当には何も考えていないし、何も感じてもいない」と諦めることはできない。諦めてしまうと、僕は自らの力で何も決められなくなってしまうだろうからだ。「今日何をするか」から「将来何をしたいか」までの、すべての自分自身に関する決定を、自分ではなく、社会や他人(親、上司、教師、もしかしたら宗教)などに従って行わなければいけなくなってしまうだろうからだ。それは自由ではない。「自由とは何か?」という問題もまた難しいが、少なくとも、もっと自由なやり方があるように僕には思えるのだ。(つづく、と思う。)