テロル的思想・深い内省

「N国党」について僕が考えたことは、「彼らは、虐げられてきた人たちが『社会に対して自らを正当化する』という無意識にある動機から、『社会は間違っている、自分は正しい』という偏った考えを育て上げ過激化していった、テロル的思想を持った集団である」というものである。彼らは、自分たちが何を感じ、何を考えているのか、本当には何も知らないまま過激になっていくのである。彼らは自分たちが何をしたいのか、何を言っているのか、何をしているのか、知らない。

「社会を批判する者は、それと同時に、深い内省をしなければいけない」というのは、僕がずっと考えてきたことである。自分の中にある「悪」や「ごかまし」「コンプレックス」に対して無自覚な人間が、どうして他人や社会に対して批判的になる資格があるだろうか。『万延元年のフットボール』に出てくる、「社会に受け入れられていない」タイプの人間であり、革命思想を持った「鷹」のことを思い出す。

「正しいことは自分の外にあって、それに従っていればよい」という考えは一切捨てて、僕たちは考え続けなければいけない。「深い内省」をしなければいけない。自分がこれまでどういうことに傷つき、どのようにそれを克服しようとしているのか、するべきなのか、徹底的に自覚し、考えなければいけない。

それは「地に足をつけて」考えることである。神にも、神を非難するあらゆるイデオロギーにも頼らず、真に「人間の地平にとどまって」考え続けることである。内側にしか答えはない。答えを探そうと外側に向かっていって、そこでいろいろなものを見ることは良いことである。しかし、最後は、自分自身が考えたことにどこまでも忠実でなければいけない。それは、『魔の山』の主人公であるハンス・カストルプが、セテムブリーニの持つインテリ的いかがわしさにも、ナフタの持つ退廃的いかがわしさにも(彼らの影響を受けつつも)誘惑されず、最後は自分ひとりの力で〝愛と善意〟のヒューマニズムを体感したのと同じように。

そして僕は、「虐げられた人たち」を作り出すのは社会である、ということも知っている。「虐げられた人たち」がテロル的思想を持ってしまうことの責任は、「深い内省」を疎かにした彼ら自身にあるわけではなく、やはり社会にあるのだ、ということを知っている。(あるいは、誰にも何にもその責任はないのかもしれない。)