『灯台へ』を読みながら

ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』、すごく好きだ。読み終わる前からここにそれを表明したくなるくらいに……。自分は何かを「好きだ」と表明することで「こびてる」わけではない、と信じたい。読み終える前からこういう文章を書いてしまうこと自体がすでに怪しいけど。「好きだ」と表明することに満足してしまって、それをしなかったら失われることなく持ち続けられたかもしれない「ほんとうの関心」みたいなものが少しでも失われてしまうのだとしたら、それは嫌である。こういう文章を書くことが、この本を自分の中で半ば終わったことにしてしまうのだとしたら、書かない方がいい。けど、書いてしまう。「何かを好きと表明すること」に関わる葛藤みたいなものを、これを機に文章にしたかったから!(という言い訳を用意して。)

でも、ちょっと読んだだけでも分かるくらいに、この小説は僕の中にあるものとすごくリンクしたのです(そう思う)。それは、この小説が「意識の流れ」という技法を用いて書かれていることと深く関係があると思っている。僕はこれまでずっと、文章を書こうと思うときには「自分が感じていること・考えていること」だけを題材にするしかなかった。それは、僕が日々をたいしたイベントもなく過ごしているため「今日こんなことがあってさ」みたいなことを題材にすることができなかったからである。この小説も、話の筋を読ませることではなく、登場人物の「感情の揺れ」や「一貫性のない思考」をそのまま垂れ流しにしたみたいな書き方(それが「意識の流れ」)が大事なのであって、それは、ふだん僕が文章を書いているときの書き方に近いものがあると思う(もちろん僕の方は全然洗練されていないんだろうけど)。

これは、大きく頷きたくなった一節。「まったくどう考えればよいのか。人を判断し評価するとはどういうことなのか? あれこれ考え合わせて、好き嫌いを決めるためには、どうすればよいのだろう。それに『好きだ』『嫌いだ』っていうのは、結局どういう意味なのか? 梨の木のそばに釘づけにされて立ちつくしていると、二人の男性のさまざまな印象が降りかかってきて、目まぐるしく変わる自分の思いを追いかけることが、速すぎる話し声を鉛筆で書きとめようとするのにも似た、無理な行為に思われてくる。しかもその『話し声』は紛れもない自分自身の声で、それは否定しがたく、長く尾を引くような、矛盾に満ちたことを次々と言い募るのを聞いていると、梨の木の皮の偶然の裂け目やこぶでさえ、どこか永遠不変の確乎としたもののように感じられた。」