快楽主義とヒューマニズム

最近、快楽主義とヒューマニズムについて考えている。カミュさんは「愛についてぼくの知るところは、ぼくをあるしかじかのひとに結びつけるあの欲望と優しい感情と知力の混じりあったもの、ただそれだけだ」と書いている。さて、「優しい感情」とはいったい……。

人生に目的なんてものはないし、人間や世界にも意味はない、と仮定しよう。それでも間違いなく僕たちは考えたり・感じたりする。つまり美味しいものを食べたり、寝たり、「ぼくをあるしかじかのひとに結びつけるあの欲望」を満たしたりする。本を読んだり旅行をしたりすることで、知的好奇心を満たしたりする。

だから、こういったことの総数を増やしていくこと、考え・感じることの体験を大きくしていくことが(矛盾しているようだが)人生の目的であると思い込んでみて、それらを大きくするために自らの知性を使えばよいのだ、と考えて、たいした問題はないように思われる。が、どうだろうか。(しかしこれだと結婚はなんのためにあるのか分からない、という問題が出てくる。結婚は、考え・感じることの体験を大きくしてくれるのに「効率的」ではないような気がするのである。いやな言葉を使った。)



(資料?として。)『異邦人』の主人公ムルソーについて、カミュさんはこう言っている。「……母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮す社会では、異邦人として扱われるよりほかはないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったのか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところとちがって、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在すること、感じることの真理である。それはまだ否定的ではあるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう……」(ところで、ホールデンも決して人間の屑ではない。)