前提としての反権力

頭が良くて、かつ「自分が正しいとは限らない」ということを、ちゃんと心の底から思うことのできる人、というのは非常に少ない。僕はかつて自分が正しいと思っている大人たち(大人たちはたいてい子供よりも自分の方が正しいとか思ってしまうのだ)に心底むかついていたので、そうはなりたくないと、事あるごとに「なにが正しいとかは分からないんだぞ」と自分に言い聞かせて、自分なりに頭を訓練させてきた(それでも「僕は正しい!」と思うときは当然あるのだが)。

「なにが正しいとかは分からない」世界においては、弱い立場にいる人を守る意見の方が、そうでない意見よりも、ただその意見が弱い立場にいる人を守るものでしかなかったとしても、はるかに正しい。だから僕のやるべきことは、①誰が本当に弱い立場なのか、自分の持っている限りの知性を働かせて見極めること(例えば、路上で歌う女性シンガーソングライターに罵倒をするおじさんが、いかに社会的に弱い立場にいるか、考えてみてほしい。では、誰が(何が)本当に強いのか? 問題は深い)、そして②弱い立場の味方をすること、である。

力関係を度外視して、上から「正しさ」を持ってくるやからがたくさんいる。彼(彼女)らは言葉しか見ない。しかし、言葉ではどうとでも言えてしまうものだ。賢いだけの人は、力の強いものにさらに力を与えるような都合のいい理屈を、言葉をもて遊ぶことで、いくらでもでっち上げてしまうことができる。

僕の根底にある考えは「反権力」である。(おなじ村で暮らさなければいけないのなら、)権力は、その「正しさ」に限らず、その力を弱めるべきであると思っている。僕は自分が誰かに怯えることを「よし」としないし、僕が誰かを怯えさせることはもっと「よし」としない。僕は権力ある人の意見を鵜呑みにしないし、僕自身が権力のある人になりたいとも思わない。誰の信者にもならないし、誰も自分の信者であることを許さない。

僕たち一人一人がものを考えなければいけないのは、ものを考えなければいつの間にか権力のある方に流されてしまうからだ。(「政治に文句があるなら自分が政治家になればいいだろ」というセリフは、いったい「誰が」最初に言い出したのだろう?)