心を水晶に例える

人間の心を(占い師が手をかざしたりのぞき込んだりしているような)まん丸の水晶に重ね合わせて考えてみる。そして「感情」や「思考」といったもの(広く言えば「意識」)は、水晶の表面に映った模様のことである、と想像してみる。われわれは自分の水晶をどんなに注意深くのぞいてみても、その表面に映った模様を見ることしかできず、その中に何が入っているのか、模様を作り出しているものそれ自体の正体はいったい何なのかを知ることは決してできない。

一つの疑問が浮かんでくる。水晶の中には実は何も入っていないのではないか? 模様はただそれ自体として水晶の表面にあるだけで、それをもっと本質的な「何か」が作り出しているメッセージであると考え、模様からその「何か」について解釈したりすることには何の意味もないのではないか? と。

もしそうだとしたら、大変なことである。例えば、誰かを「愛してる」だとか「尊敬している」といった(一般的には)価値があるとされている気持ち(いわゆる「心のこもった」気持ち)と、「この料理おいしいな」や「眠いな」といった些細で気まぐれな気持ちとは、まったく同程度の価値しかないということになってしまうのだ。どちらも、ただ、そのとき水晶の表面に映っていたというだけであって、その人自身に固有の、その人自身の中にある「永遠不変のもの」から発せられているというわけではない、ということになるのだ。

僕たちが「人を信じる」というとき、僕たちはその人の発する言葉や、その人の行動といった「表面的なもの」について考えているのではなく、その人の一番内側にあるものについて、つまるところ「水晶の中身」について考えているのだが、それが「ない」となると、僕たちは他人に対して、そして自分自身に対しても、何も信じることができなくなってしまう。信じるべき対象がそもそもないからである。

それならそれでいいじゃないか、と思うことができれば何の問題もない。しかし、それで本当に耐えられるだろうか? 自分の心は単なる気まぐれの連続であるし、自分のことをよく思ってくれている人の心も、ただ、今はそういう気持ちになっているというだけでやはり気まぐれだし、ふとしたきっかけで消えてしまうような儚いものであるとして、納得できるだろうか? 人との関わりの中で感じる「親密さ」には何の意味もないということになってしまうのである。