スーパーマンと神様

スーパーマンは「愛」と「善意」の象徴である。「愛」と「善意」をキャラクター化したものである。スーパーマンになりたいと思うことは、真実の「愛」と「善意」を持った人間になりたいということである。

しかし、僕たちは誰もスーパーマンになることはできない。というのは、「愛」と「善意」は、言葉が与えられて初めてその存在が認められている概念でしかないため、それらの象徴であるスーパーマンもまた、現実世界に存在することのできる人間ではないからである。りんごとはわけが違うのだ。(りんごも「りんご」という言葉が与えられて初めて存在し始める概念である、という難しい考え方もあるらしいけど。)

それらに言葉が与えられているのは、それらが間違いなく存在していてほしい、という世界中の人々の「願い」があってこそなのだと思う。そこから、それらと反対の「憎」や「悪意」あるいは「偽善」といった言葉も作られ、作られると同時にそれらの概念もまた存在するようになる。したがって、スーパーマンは「願い」に中にしか存在できないし、スーパーマンをスーパーマンたらしめる悪役もまた「願い」の中にしか存在することができない。

僕たちの心の中には、誰しも「愛」「善意」「憎」「悪意」「偽善」などの言葉で表現されるものの全てが含まれているのだが、これは実際には、そういった言葉で表現することがナンセンスなほど心の中は混沌としているということを意味する。混沌とした心の中にあっては、「愛」と「憎」、「善意」と「悪意」、「善意」と「偽善」の境界もなくなっている。

誰もスーパーマンになることはできないというのは、誰の心の中も混沌としていて、スーパーマンのような無垢さを持っている人間などいない、ということの言い換えである。自分の中にある「愛」や「善意」を無垢なものであると信じすぎる人間は、それらのために暴力をふるったりすることもできるけれど(例えばスーパーマンが悪役を倒すときのように)、その暴力が正当なものであったかどうかの評価は、その人のいる環境や時代に影響を受けるだろう。あるいは、暴力をふるった後の状況に影響を受けるだろう。自分では「愛」や「善意」であると信じて行ったことも、それは「憎」「悪意」「偽善」でしかない、という評価がくだされるかもしれないのである。

環境や時代、状況に左右されない絶対の評価をくだすことができる唯一の存在、それが神様である。だからスーパーマンは神様のご加護を受けている存在なのである。そしていま「神様は存在するのか」という問題がある。神様が存在しなければ、「永遠の愛」すなわち「真実の愛」を誓うこともできない。なぜなら「真実の」という形容詞が意味をなさなくなるからである。(そしてビーチ・ボーイズの『神のみぞ知る』は名曲なのだ…。『カラマーゾフの兄弟』は未読なんだけど、ここらへんのテーマと関係しているのではないかな、と予想している。神が主要なテーマになっているらしい。)