怒り、憎しみ

傷ついたことによる悲しみ、苦しみ、辛さ、あるいは寂しさ、怯えといったものを、誰にも言わず一人きりで抱えていることはできないため、多くの場合、人はそれらを怒りとか憎しみに変えて、自分の外に吐き出そうとする。

人は「嫌われるかもしれない」という不安から相手のことを嫌いになるのだし、「殺されたくない」という怯えから「殺してやる」という憎しみは生まれるのだ。あらゆる負の感情は根っこでつながっているのである。

怒りや憎しみの状態にある人(誰にでもそういう瞬間はあるものだが)に必要なのは、ただ一つ、他者に面倒を見てもらうことである。とことん辛抱強く、慈愛に満ち、愛のある人からの援助を受けることである。その援助は、親が(あるいは兄や姉が)自分の愛するかわいい子供(弟や妹)の面倒を見るようなやり方でなければならない。子供を子供扱いするようなやり方ではなく、大人がかわいい子供に対して、心の中でひそかに忠誠を誓っているようなやり方である(もちろん、子供は例外なくみんなかわいい)。

怒りや憎しみを抱えている人が、誰からも面倒を見てもらえず、放ったらかしにされたとしたら、その人は死ぬまで暗い心を持ち続けることになる。孤独と疑いの人生を送ることになる。そのうち発狂してしまい、自分が何をしているのかも分からなくなるだろう。これはその人ひとりでは決して解決できない問題なのだ。必ず愛のある他者を必要とする。

ところで、大人が子供のように他者に面倒を見てもらうというのは、まったく当然のことであって、何も恥ずかしいことではない。なぜなら、人間は誰でもかわいい子供であるからだ。誰もが一人きりでは生きていけず、ときどき他者に面倒を見てもらうことを必要とする、ただの子供なのである。

それに人が怒りや憎しみを抱くのは、とことん不幸な偶然によってそうなるのであって、その人自身のせいではないのである! 全人類が共有して持っている負の感情の配分に偏りが生じて、たまたまその人に大きな負荷がかかってしまったのである。そのことをすべての人が承知しているべきなのだ。

だから、怒りや憎しみの状態にある人にこそ、丁寧に、愛を持って接しなくてはならない。自分が負の感情を抱えているときは、できるだけ素直に、他者に面倒を見てもらわなければならない。そしてそれは何もおかしなことではないのだ。心に余裕のある人は、自らの偶然の幸せに感謝して、負の感情を抱えている人を助けるのである(もっとも、それは簡単なことではない。とことん辛抱強く、慈愛に満ち、愛のある人にしかできないことである。ふつうの人間がそれをやろうとすると、自らが負の感情に支配されてしまい、問題はさらに複雑化するだろうから)。

「(…)あのね、リーズ、長老が一度こんなことを僕におっしゃったんですよ。人間というものはたえず子供のように面倒を見てやらねばならぬ、また、ある人々は病院の患者のように世話してやらねばならないって……」(カラマーゾフの兄弟)