自己吟味と無意識

 わたしは……と考える。しかし、わたしがそう考えるのは、それが「真実だから」ではなく、それが「自分にとって都合が良いから」ではないか? ——この問いはまさしく、自己吟味、自己批判の問いである。存在被拘束性、とは本当によく言ったもので、誰も自分自身の特殊な境遇を超えてものを考えることはできないし、ものを見ることすらできない。人の思想は、その人の生まれ、育ち、経験をぬきに形成されることはないし、その人の利害、自己正当化、自己防衛を多分に含んでいるものである。思考が、多少なりとも「公平」であるためには、たえず自分を吟味しなければならない。

 心理学の言葉で言い換えれば、それは無意識でいったい何が行われているかを調べることである。無意識は意識をことあるごとに欺いている。あるいは、意識に上ることの正反対のことが無意識にはある。たとえば、意識的な自己肯定とは、無意識の自己否定の反動である。無意識の自己否定を意識の上で受け容れ、それと真っ直ぐに向き合って、その原因をとり除かないかぎり、意識的な自己肯定は心を歪ませるだけである。無意識の自己否定の存在を気づかせるきっかけは、日常のあらゆる場面に潜んでおり、意識的な自己肯定を保つためならそれらを根絶やしにするのもいとわない、といった暴君的性質が生じるからである。

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