足るを知らない社会

 お金ではないものにこそ、何かしら「善いもの」があると仮定して、それを探求するのが哲学の始まりである。だが、じっさい、その「善いもの」は、簡単に見つかるものではない。なぜなら、その「善いもの」は、お金のように分かりやすいもの、目に見えるものではないからである。それは、目には見えないもの、抽象的なものだからである。

 しかし、次のことはすでに分かっている。「善いもの」を多く持っていたとしても、必要なだけのお金がなかったら、その「善いもの」の価値も台無しになってしまう。食べるものがない人が、友人との会話を楽しむことはできない。「善いもの」の価値は、必要なだけのお金があってこそ、何かしらの意味を持ち得るのである。とはいえ、この事実をさらに押し進めて、お金があればあるほど「善い」のである、とはならない。必要なだけのお金をすでに持っているのに、それ以上のお金を求めることは、間違った行為であろう。

 資本主義において、資本はさらなる資本を生み出す元となる、と考えられている。この考えの根っこには、お金以上の価値あるものは何もない、ということが前提となっている。そしてまた、お金を稼ぐことは、他人のそれを奪うこと(競争の原理)も同時に含んでいる。だとすれば、お金以上の価値あるものは何もないと信じ、どこまでもお金を求める人々が、そうではない人々が生活するのに必要なだけのお金をも奪っているのではないか。そういうことが実際に起こっているのではないか。それが、資本主義社会において、必要なだけのお金を稼ぐのにも苦労することの理由なのではないか。足るを知らない人たちが、足るを知る人たちの「足る」までも食いつぶそうとしているのが、資本主義のありさまではないか。

 しかし、そもそも「足る」とは何か、必要とは何か、という疑問がある。食べ物は必要だが、車は必要だろうか? 車を買うための労働はやめにして、その分の労働は貧しい人にゆずり、自分はその時間を「善いもの」のために使うことにしよう、と考えるべきだろうか。おそらくその通りなのだろうが、しかし僕は、それを実行に移さない……なぜなら、僕は車を必要としないとしても、車の便利さという贅沢が欲しいからである。ようするに、おそらく僕も、他人の「足る」を食いつぶしている、恥知らずの一人である。このように、マルクス主義(みたいな思想)の持ち主の行き着くところは、そいつが嘘つきではないかぎり、すなわち、自分の思想に忠実な人間であるかぎり、つねに自己批判の思想である……

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