哲学と現実

 哲学の本分は、どこまで行っても「お金を稼ぐ」ことにはなく、それとは正反対のことにある。思考という活動が、身体ではなく精神でなされる限り、ただ「生きる」(=生命を維持する)ためではなく「善く生きる」ためになされる限りは、そうである(したがって「仕事哲学」という用語は形容矛盾である)。

 しかし、とはいえ、哲学は暇人の知的なお遊びではない。考えるという営みが、いわゆる「観念のお遊び」に成り下がってしまわないため、地に足をつけたもの、生活に根ざしたものであるためには、ときに、考えるという営みそれ自体を中断しなくてはならない。外の世界に目を開いて、目に見えないもので構成される空想の世界から、目で見ることができ、手で触れることのできるこの現実の世界へと、降りて来なければならない。そこには他人がいるし、生活がある。

 金持ちの坊ちゃん、モラトリアムの学生、奴隷を所有している主人、ブルジョワなどなどのような、生活の必要に追い立てられることのない、他人の労働で自らの生命を維持している者には、なるほど、少数者のための哲学はあっても、人間一般に通用する哲学はあり得ない。

コメント