見る=名前をつける

 例えば、エデンの園それ自体をこの目で見た人はいないし、万人の万人に対する戦争それ自体をこの目で見た人もいない。だったらそんなもの人間に何の関係もないじゃん、と言うとしたら、それは間違いである。動物にとってなら実際何の関係もないだろうが。それ自体としては現実にないそういった抽象概念は、そうは言ってもやはり、日常的な経験地平から生み出されたものである。存在する個々の事物から抽象概念を生み出す人間の能力は、あまりに不思議で、ほとんど魔法みたいである。この能力に最初に気づいたのはプラトンで、その分析はカントのカテゴリー論、ウェーバーの理念型、ウィトゲンシュタインの言語論的転回などに引き継がれている。

 この抽象化の作業は、私たちがものを見る(認識する)とき、つねに行われている。例えば、世界にリンゴそれ自体は存在しない。エデンの園それ自体を見た人はいないのと同様、リンゴそれ自体を見た人もいないのである。ただ個々の🍎が存在するだけである。それらを「リンゴ」というカテゴリーに入れることで初めて、私たちはリンゴを見ることができる。しかしその際、まだ個々のリンゴを見分けることはできない。同じカテゴリー「リンゴ」に入れているからである。個々のリンゴを見分けるためには、さらに「傷のついたリンゴ」などのカテゴリーが必要である。このように、言葉のラベリング作業なくしては、私たちがよく知っているような意味で「ものを見る」ことは不可能なのである。

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