スタンダール『赤と黒』

 面白かった! 特に下巻の、特に最後のジュリヤン・ソレルの葛藤が非常に面白かったです。

 雑に思ったことを書くのですが、まず、レーナル夫人との恋愛が真実の恋愛で、マチルドとの恋愛はそうではない、またはその逆、という見方はできないと思った。どちらも(真実さの点で)対等であると思う。貴族と聖職者(宗教)が、マチルドとレーナル夫人で対応しているのであれば(さらに赤と黒で)、貴族も聖職者も、出世のことしか頭にない偽善という点で、ジュリヤン・ソレルの中では(おそらく作者の中でも)共通しており、そういう他人を前提とした恋愛(第三者からどう見られるか)が、真実の恋愛の邪魔をする、という構図なのかな、とか思った。同じ貴族階級の者からどう見られるか、聖職者あるいは神からどう見られるか、を気にせずにはいられない点で、マチルドもレーナル夫人も賢明ではなかったのだろう。
 さらに言えば、出世を強く望む野心を持っていたジュリヤン・ソレルも、マチルドやレーナル夫人と対等であるのかもしれない。つまり、そういった野心が、真実の恋愛の邪魔をしているという点で、彼もまた賢明ではない。そして、ジュリヤン・ソレルがナポレオンに憧れる平民であることによって、この三人が、教科書にも載っているフランス革命時の有名な風刺画に描かれている平民、貴族、聖職者と、綺麗に対応しているという点が面白い。なるほど、これらは社会的な階級のことであり、社会的なものは他人にどう見られるかを前提としているものであるから、真実の恋愛という点からは等しく遠いところにある。よって、三人は同じくらいに賢明ではない。
 ジュリヤン・ソレル、マチルド、レーナル夫人がそれぞれ、野心、虚栄心、道徳心によって真実さ(誠実さ? 正直さ?)を歪めた、と見ることができると思う。しかし物語の最後では、この三人がいずれもこれらの感情から脱し、世間体を一切気にしなくなるところから、真実さに立ち戻る(すると最後に愛していたレーナル夫人との恋愛が真実の恋愛と見ることができるのだろうか? う〜ん)。これは、このときになってジュリヤン・ソレルが「聖書の神さまじゃない。……公平で、善良で、無限なヴォルテールの神さま」がいたら……と願い、さらにその神さまを説く人間がいる際には「 三人になるともういけない。……ひとりぼっちで生きる!……なんという苦しみだ!……」と思いながら「孤独」について考える場面からも見ることができるように思う。つまり、第三者の目の一切及ばない孤独な状態で自分が何を望むのか、それが肝心である、というところに行き着いたのだろう、とか、勝手に(まことに勝手に)思った。
 このことは、作者が最後に添えた文章からも見ることができるのでは……?

 世論は自由を手にいれさせてはくれるが、一方世論が支配する世の中では、都合の悪いこともある。なんの関係もないこと、たとえば私生活にまで干渉する点である。

 この物語において、私生活とはおそらく恋愛のことではないか?

 いや、こんなにいろいろ考えることができるのに、この本の面白さを半分も理解できてないんだろうな! と思うから、これ、いつかもう一回読みたいです。

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