春になろうとしていた。三月が終わりに近づいていた。この春は、僕がこれまで迎えたどの春よりも暗い春になるに違いない、と僕は思った。新鮮さのかけらもない春。テレビや新聞、あるいは街の雰囲気から感じられる「春がきた!」という高揚感は、それと対照的で暗くて不安定な僕を、はっきりと人間社会から弾き飛ばしてしまった。
 シャワーを浴びよう、浴びなきゃ、と思った。目が覚めては夢の中に戻っていくことを、もう何度もくり返していた。目が覚めるたび、現実のすべて(生活のすべて)を思い出して尻込みする。そして頭が完全に覚醒してしまう前に、夢の中に逃げるため意識的に眠り込もうとして、目をつむる。しかし今度はそうもいかなそうだった。口の中はねばねばしているし、体は不潔で、布団の中がなんとも居心地が悪く感じられた。
 電話が鳴った。
 僕はびっくりして電話のことで頭がいっぱいになり、急いで布団から飛び出して受話器を耳にあてると、
「星、いま何してたの?」と、はきはきした女の声が言った。
「ああ……」
「寝てたのね。今からそっちに行くから、そうね、あと二十分くらい。じゃ」

 女はきっかり二十分後にやってきた。僕がドアを開けると、女はさっさと靴を脱いでそれを整えることもせず、すたすたと僕のわきをすり抜けて居間に座り込んだ。彼女の行動にはいつも躊躇がまるで感じられない。
「見て、このポスター」と言って女は、くるくる丸めた状態で腕に抱えていたポスターを床に広げた。「私たちのサークルの新入生歓迎会のポスターよ。星、あなたは新入生歓迎会には来ないの?」
「行かない」と僕は言った。「それに『私たち』のサークルではない。あのサークルは、もう、僕のサークルではない」
「ねえ、星。小山田はあの事件に関して、あなたのことをひどく中傷しているわ」と女は言った。女はどうやらこの話をするために僕の部屋に来たようだった。「星が一人で家にこもって口を閉ざしている間、小山田は自分に都合の良いやり方でみんなに事件のことを説明してまわるから、みんなは星のことを悪者だと信じ込んでいるわ」
 僕は黙っていた。
「どうして星はそれの弁解をしないの。星が、星から見た事件の真相をみんなに説明してやらない限り、まったくフェアじゃない。すべて小山田の思うつぼだわ。小山田はあなたを孤立させようとしているのよ」
「どうでもいい」
「どうでもよくないわ、星。みんなは鈍くて、それでいて小山田は巧みな話術をもっているし、あなたは家にこもっているし、それだと全然フェアじゃないのよ」
「よく分からないんだ」と僕は、女と目を合わせないまま言った。
「僕はあの事件について何か説明ができるほど、自分の中でまともな整理ができていない」
「星は当事者じゃないの。あなたと小山田にはすべて分かっているでしょう。そしてこれは、あなたと小山田にしか分からないことなのよ」
「いや、残念ながら僕にはよく分からない。何がどうなってああなったのか、どんなに考えてみても、僕にはよく分からない」
「分からない、ってどういうことよ。何があったのか、前から順番に思い出してみるだけじゃない」
「ああ、黙ってくれ!」僕は怒鳴った。かなり大きな声で怒鳴ったが、女は特に驚いている様子はなく、ただ口をつぐんで黙っただけだった。僕が癇癪を起こすのを分かっていて、しかもそれを待っていたかのように。「黙ってくれ、もうどうでもいいんだ。すべてどうでもいい。小山田が下劣なやり方で僕を悪者にしようが、それをみんなが鵜呑みにしようが、これからの僕には何の関係もない。小山田は昔からそういうやつだった。頭の悪いやつらの人気者で、みんなは小山田の言うことをそのまま信じた。僕も信じた。そうすることが自然であるように小山田はうまく工夫するんだ。本当に本当に賢いやつは小山田のそういう下劣さにすぐに気がついて、小山田と小山田のまわりにいるやつらとは関わりを持たないようにしていたし、僕もずっと前からそうするべきだったんだ。でもあの事件のおかげでようやく僕も目が覚めたよ。いい機会だった」僕は堰を切ったように喋り続けた。女は黙ってそれを聞いていた。「とにかくそういうことだから、僕はもうサークルに顔を出すことはないし、新入生が入ってきて、そのほとんどが小山田の言いなりになろうがなるまいが僕には何の関係もない。小山田くらい下劣なやり方で他人をおとしめる人間を僕は見たことがないし、あいつの言うことを鵜呑みにするやつらはみんな、頭が悪くて、愚かで、くだらないやつらなんだ。僕が必死になって弁解して、再びやつらの仲間入りをする価値なんて豆粒ほどもありはしないんだよ。豆粒ほども……」
「でも」と女は言った。的確だった。
「でも、そういう考えはすべて」僕はほとんど泣きだしそうだったが、同時にどこか冷静でもあった。「そういう考えはすべて、僕の嫉妬心が作りあげた、単なる妄想にすぎないのかもしれない」
 数秒間の沈黙があった。僕は少し緊張しながら、女が次に何を言うのかを待っていたが、女はやがて、
「単なる妄想にすぎないのかもしれない、ね。断定まではしないのかしら」と言った。女はじっと僕の目を見据えていた。僕の目を通して、僕の中にあるものすべてを見ているようだった。
「断定はしない」僕ははっきりとそう言った。「かもしれない、では不満か?」
「いや、そうね、それくらいがちょうどいいと思うわ。それが一番ぴったりな言い方だと、私も思うわ、星」
 そして女は立ち上がり、自分の役目を抜かりなく終え満足したかのような笑みを浮かべて、もう一度僕を見た。
「じゃ、私はもう帰ることにするわ。きっとまたお邪魔すると思うから、そのときまでさようなら」 「ああ、ありがとう」
 女は得意げに、どういたしまして、という表情をすると、部屋に入ってきたときと同じ力強さで、自分のするべきことをすべて分かっている人間の自信に満ちた態度で、玄関まで歩いていき、一度もこちらを振り向くことなく僕の部屋から去っていった。
 季節は春になろうとしていた。