たとえ僕がどんなことをしようとも、父親は僕に対して怒る資格どころか、不機嫌になる資格すらないと、僕は思う。だからといってどんなことでも好き勝手やってやろうというわけではないし、父親の気持ちを一切無視するというわけではまったくないということは、ちゃんと書いておく。つまり僕の行動は、僕の良心と公平さにのみ委ねられてるということだ。

父親が少しでも不機嫌になると、僕は動揺して、どんなに自分に非があったとしても反抗してしまう。そしてかつての父親が僕(や姉)に対して行った仕打ち(それも当時の厳しい家庭だったら普通のことなのかもしれないし、僕が決定的に不真面目な子どもだったという可能性もあるから、どこまで非難できるかは決めかねる仕打ち)について父親に思い出させて、それに対する怒りと憎しみを洗いざらいぶちまけてやろうか、という衝動にかられる。すると父親はそれを察して不機嫌になることをやめる。父親は、かつての自分に対する僕の感情を、僕の口から聞かされることを恐れているのだと思う。

僕の中にある「かつての父親に対する怒り・憎しみ」は、僕が成長して自分の頭でものを考えることができるようなってから「やっぱり不当だったんだ」と気づき芽生えた感情だが、しかしそのときにはもう「かつての父親」はいない。だから「かつての父親に対する怒り・憎しみ」は「行き場のない怒り・憎しみ」となって心の中にしまっておかなければならない。自分の中にある強い感情を自分のものだけにしておかなければならないのは辛く、かなりの忍耐を必要とする。(それは良い感情であれ悪い感情であれ共通していること。)

現在の父親は、かつての父親との違いに拍子抜けするくらい僕(や姉)に対して優しく、なんなら甘いことさえある。(負い目を感じているのかもしれない?) 僕の怠惰と「無軌道さ」を許してくれるし、生活や将来に対して十分な支援もしてくれる。客観的に見れば素晴らしい親だろうし、僕もそう思う。感謝もしている。

でもだからこそ僕は「かつての父親」と「現在の父親」との間で、いつも感情の板挟みのようなものをくらっていて、それにひたすら耐えていて、耐えるだけで精一杯だから僕はふだん父親に対して自分の感情をひたすら隠している。その代わりどうしても耐えられないときは(その是非に関わらず)爆発してしまう。感情を爆発させた僕に対してぶつかってはこないし、すると僕が強行的に相手を黙らせたような形になるから、後から僕は本当に悲しい気持ちになってしまうのだ。

母親に対する感情も(父親ほどではないけれど)似たようなものだ。僕が両親に抱いている複雑な感情(単に怒り・憎しみをぶつければいいってもんではなく、単に感謝すればいいってもんでもない複雑さ)を思うと、どうやっても分かり合うことはできないような気がしてしまう。僕は両親に反抗することもあれば遠慮することもあるが、そのどちらも「親密な関係」からはほど遠い反応である。