どんな他人も自分である

文章を書くときはなぜか、どんなに頑張っても自分に都合の良いことしか書くことができないもので、自分に都合の良いことなら嘘もつけるし、自分に都合の悪いことなら本当のことでも隠してしまう。

①客観的であることにはずるいところがあって、自分は外から世界を見ているだけだよと言って、自らを当事者でなくしてしまう。そうではなくて、例えば「偏見」や「悪」について述べるのであれば、述べる人が自らの思考回路から自らの「偏見」や「悪」をえぐりだしてきて、それをまず言葉にしなければいけない。それができないのであれば、なにも言うな、である。

②人は平気で(無意識のうちに)自らの記憶を、自らがヒーロー(ヒロイン)であるように捏造する。



本当に深い深い内省があれば、誰も誰かを責めることはできない。人間はみんな似たような思考回路をたどるものだ。他人のそれがみっともないからといっても、よくよく考えてみれば、すべて自分も知らぬ間にやっていることだ。他人の観察ばかりしていないでちゃんと自分の中にもぐっていけば、どんな他人も自分であるということが痛いほど分かる。(殺人者でも、独裁者でも、独裁者を支持する群衆でもね。)『アイ・アム・ザ・ウォルラス』の冒頭にもあるように、僕らはみんな「おんなじ」である。本当に。