人生の道草を食う

脱落するところまで脱落してみたいという気持ちがある。自己破滅的な人たちに対する憧れがあるのかもしれないです。不思議な憧れだ。まったくダメな人間であるか、なんかしら秀でたものを持っているかの二択であるところまで行ってみたい。危ない考え……。

とはいえ、休学くらいなんてことはありません。仮に僕みたいなタイプの人間がたくさん集まったところを想像すると、その半数以上は休学(あるいは留年)くらいするんではないかな。(この仮定は意味をなしていますか?) 休学でもなんでもして、大学生期間に思いっきり人生の道草を食って、それがあとあと「社会的に活きる」かどうかはともかく、その人本人からしたら立派な精神修行になるには違いない。(とか書きつつ、それなりに将来は不安だ。)

あと五年くらい、どちらかと言うと僕は逃げ腰であり続けると思う。社会的責任から「逃げ」の姿勢であり続けると思う。しかし二十五歳に近づくにつれて、僕は「逃げる」よりも「折り合いをつける」を選ぶことを学んでいき、社会的責任と「折り合いをつける」ことができる大人になっていくと思う。(なっていくべきだ。)

しかし、現時点で「社会的責任と折り合いをつけながらやっていこう!」と納得するには、僕はあまりにも若すぎる。まだまだたくさんものを知りたい。なにからも自由な身となって、徹底的にものを考えたい。なにも決めたくないし、なにも決められたくない! モラトリアム……モラトリアム…(呪文)。(あるいは「二十五歳くらいで僕は『折り合いをつける』大人になっていくべきだ」とすることによって、二十歳の僕は二十歳の僕なりの「折り合い」をつけているのだと解釈して、ご容赦願いたい。)

それにしても、どうして多くの人たちは深い疑問を抱くことなくふつうに大学を卒業してふつうに就職ができるのか、僕には不思議に思えて仕方がない。自分が一体なんであるか知っているのだろうか? みんなもっと古典的な(?)モラトリアム期を過ごすべきだよ! まわりの大人は急かすだろう。実際、急がないとまともな職にはありつけない悲しい世の中なのかもしれない。僕がいま足踏みしていることは、将来の僕を後悔させることになるのかもしれない。

将来のことはなにも分からない。全然大丈夫なのかもしれないし、ぎりぎり大丈夫なのかもしれない。ぎりぎりアウトなのかもしれないし、もう手遅れなほどにアウトなのかもしれない。分からなすぎて途方に暮れることがある。