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 3です。今日はアイデンティティについて考えてみたいと思う。アイデンティティはどこからやってくるのか?
 満たされない思いを抱くとき、僕たちは多くの場合、自分の中に秀でたものがないためだ、と考える。そして「目標に向けたたゆまぬ努力の末に成功を掴み取る」という延々と語り継がれてきた美徳と相まって、その成功を自分の秀でたものとしアイデンティティを手にしてやろう、とか思う。
 スポーツ大会で優勝すること。コンテストで優勝すること。優秀賞を得ること。テストで良い点数を取ること。有名大学に合格すること。資格を得ること。一流企業に就職すること。出世すること。お金持ちになること。有名になること。
 しかし、こういったものがアイデンティティを与えるものではないことは明白である。なぜならそれらは、一つのものさしの上で行われるレースであるからだ。
 「足の速さ」「ピアノの上手さ」「絵の上手さ」「頭の良さ」「スキルの有無」「社会的地位」「お金の量」「有名さ」……これらは全て、一つの評価基準しか持たない。レースで一位だろうがビリだろうが、皆「足の速さ」という一つしかない特徴を示しているに過ぎない。その特徴が秀でていようがなかろうが、ユニークでもなんでもないだろう。
 こういった一つのものさしの上で行われるレースは、ヒエラルキーというものを形成する。そこでは上には上が、下には下がいる。多くの人たちは上に行けば行くほど満たされると思っているようだけれど(そしてこれは僕自身も幾度となく思ってきた)、全くもってそんなことはない。
 ものさしは外部から与えられるものだ。「足の速さ」を決める大会は、自分自身とは全く関係なくそこにある。「ピアノの上手さ」は審査員によって決められる。「頭の良さ」を決めるテストは先生が作ったもの、さらに言えば国が認めた教科書に沿って作られたものだ。出世は上司の判断に委ねられているし、上司の判断は会社が存続するように行われる。「有名さ」を決めるのは大衆であり、大衆の判断は「作られた」ものだ。
 外部から与えられるというのは、多くの人に共通している価値判断であるということだ。つまりそれは客観的なものだ。大きな特徴として、それらは言葉にできる(できてしまう)。
 言葉にできる、とはどういうことか? それは簡単に言えば、名乗れる、ということだ。自己紹介で喋られる内容。履歴書に書くこと。名刺に載せること。最近よく聞く「マウンティング」とやらの自慢の内容もこれにあたる。
 ここで、はっきりと主張しておきたい。名乗れるものの一切は、自らのユニークさを示すものではない。決してない。断じてない。ないです。名前、年齢、学歴、職業、実績、自分はどんな人間か、将来の夢や目標は何か、どんな友人や恋人を持つか、どんな趣味を持つか、なにが好きでなにが嫌いか……こういったものはどれも、自分というものを示すのになんの役割も担っていないのである。
 それではなにがアイデンティティとして機能するのか?
 ここでそもそもの疑問として、なぜアイデンティティが欠如しているように感じるのかを考えたい。よく考えてみればおかしな話である。なぜなら、僕たちは誰一人として同じようには作られていないはずだからだ。「みんなちがって、みんないい」はずだからだ。人間の本来「ある」姿がそのまま、アイデンティティを有しているはずだからだ。
 であるならば、アイデンティティが欠如しているように感じるのは、その人が現在「ある」姿ではないからだろう。つまりそれは「あるべき」姿。外部から与えられた社会的理想を自らの軸においているのである。外部にアイデンティティを求めている。内部からの欲求ではない。外部から与えられた見せかけの欲求を、自ら(内部から)の欲求と勘違いしているのである。
 大多数の人間にとって、内部からの欲求というものはあまりにも奥深くに隠されているように感じる。自分がほんとうに望んでいるものはなにか。なにをしたいのか。これを徹底的に(徹底的に!)明らかにしなくてはならない。
 まず、よく言われるスローガンをぶっ壊しておきたいと思う。それは「他人の目を気にするな」である。確かにそれの意味するところは、他人という外部から与えられる評価を気にして自分らしさを失うな、ということであろう。しかしこのスローガンに同意してしまうとき、僕たちは内部からの欲求のため(「自分らしくある」ため)に、「他人の目を気にするな」というまたしても外部から与えられた理想を、この時点で既にがっつり取り入れていることに気付かなくてはならない。「他人の目を気にしない人」という社会的理想。立派な立派な「あるべき」姿である。
 そしてこの理由からも分かるように、スローガンというものがそもそも外部から与えられるものでしかないのだから、それがどんな内容のスローガンであれ、ただそれがスローガンであるというだけで、それは必ずぶっ壊しておかなければならない。そしてこれは際限なく繰り返される破壊行為であることに注意したい。なぜなら、「スローガンはぶっ壊せ」というスローガンですらもぶっ壊さなくてはならないからだ。言葉にできた時点でもうそれは「ある」姿とは呼べないのである。
 際限なく繰り返される破壊行為、それは、物事に境界を引いてしまう<言葉>の乱暴さに対する抵抗を<言葉>を武器にして行う、ということである。本来「ある」姿に境界などなく、全てはグラデーションである。<言葉>はそれを切り分けて「あるべき」姿に変えてしまう。しかしそれを解消するためにもまた<言葉>を使わなければ僕たちは先に進めない。そうして再び問題は生み出される。この繰り返し。
 言葉の乱暴さについて、「他人の目を気にするな」というスローガンを例にあげよう。それの意味するところは「自らの欲求を優先させるため、他人の評価を気にするな」であるが、ここで、<言葉>は「自らの欲求を優先する」と「他人の評価を気にする」という行為との間に乱暴にも境界を引いている。その二つが排反であるかのように扱っているのである。しかし僕たちが実際に「他人の評価を気にし」てしまうのは、紛れもなく他人からよく思われたいという「自らに欲求」を持っているからに違いない。僕たちは「他人の評価を気にして、かつ、他人の評価を気にせず自分らしく振る舞いたい」のである。これは事実である。そして事実が矛盾した文章でしか書けないのは、言葉がそれだけ乱暴であるからだ。
 ここで僕たちがやらなければならないことは、言葉によって対立させられた二つの主張(今の例では「自らの欲求を優先させる」と「他人の評価を気にする」)を突き合わせて、その二つを超える主張を見つけてくることだ。(アウフヘーベンとか言うのかもしれない? 分からないけどとりあえずこれを「アウフヘーベン」と名付けることにする。)そしてこの主張が言葉にされたとき、またしてもその言葉が引いている境界を疑って、再びアウフヘーベンをする。この際限なく繰り返されるアウフヘーベンによって、自ら(内部から)の欲求は段階的に明らかにされていくのだと僕は思う。
 これを一般的には「葛藤」と呼ぶのであろう。人間が本来「ある」姿に近づくためには、葛藤を行わなくてはならない。葛藤は、人間らしさの重要な一部分であると思う。
 この葛藤の先にある、アイデンティティを示すものとはなんであろうか? それは言葉ではない。つまり発言ではない。行為である。際限ないアウフヘーベンによって言葉を探していった先にあるのは、発言ではなく行為である。行為が発言である場合でも、発言の内容(〇〇)ではなく、「〇〇について喋る」という行為である。とりわけそれは積極的なものではなく「消去法で決定される行為」である。絶えずスローガンをぶっ壊していくということは、絶えずスローガンに沿った行為をぶっ壊していくということだ。その過程の先に残った行為を選択する。「こうするしかない」という消去法により行為を決定する。積極的にその行為の理由を説明することはできないけれど、自らの「ある」欲求にどこまでも誠実な行為。言葉によって作られる一切の強がりと弱がりを取り除いた、名無しの自分の行為のみが自らのユニークさを他者に示し、アイデンティティとして機能する。
 「ある」とは、決して言葉で表現できないほどに混沌としている。言葉を用いて境界を引いた瞬間にそれは「あるべき」になってしまう。それに挑戦しようとしているこの文章が多くの矛盾を含んでしまうのは避けられないことだ。なぜなら僕は言葉を用いているからだ。「ここ矛盾してるよ」という指摘があるかもしれないけれど知ったことではないのです……。


──2/23、追加。
 抽象的過ぎた部分があるので、もう少し詳しく説明したい。
 「ある」姿になろうとしなくてはならない。だから、「怒ってはいけない」と「あるべき」姿を掲げた後、実際に怒りの感情が芽生えたとき、つまり怒りの感情が「ある」とき、それらは他者から(他人から、あるいは私自身からも)隠されなければいけなくなってしまう。だから、怒りたければ怒ってもいいのである。怒りたいときに好き放題怒る野蛮な人間になれ、ということか? と思われるかもしれないけれど、そうではない。「怒ってはいけない」と自分を抑制したいという感情もまた「ある」のである。つまり「怒りたくない」という感情。その二つの感情、「怒りたい」と「怒りたくない」という葛藤の中に自己が現れる。どこまでもどこまでも、怒りたければ怒ってもいいのである。しかし、怒りたいか怒りたくないかは葛藤によって決められる。葛藤をする際は頭の中で言葉を使うだろうけれど、その行き着く先には行為しか残らない。「怒る人」も「怒らない人」も存在しない。ただ、「怒る」という行為があるだけである。「殴られたときだけ怒る」と決めてしまうことで「ある」に近づきはするが、それでもまだ言葉で表現できてしまう分、「あるべき」なのである。
 どんな人間でも、どんな時でも、怒ったり優しくなったりできる。
 自分の「ある」姿が他者から隠される状態は、自分が世界に存在していないことと同じことである。顔や身体、名刺、自己紹介……は、自分について示すものでは決してない。「あるべき」姿がいくら賞賛され、有名になろうと、自分は世界から疎外されているのである。

 公にはできない、自分の中に「ある」隠された姿を人前で暴露しさらにそれが受け容れられるとき、僕たちはより満たされるだろう。例えば好きな子がいるとき、自分の中に「ある」だれだれが好き、という感情は公にはできない。そういう隠された感情を特定の友人に(勇気を出して)打ち明けるとき、僕たちはその友人と親密になることができ、満たされる。「秘密を共有する」という言い方でもいい。自分の中にある公にはできない「ある」姿を少数の人に暴露することによって、満たされるのである。恋人関係はその最たるものであろう。恋人の前でのふるまいのほとんどは、公には隠されるものであるからだ。

 このテーマについて考えるにあたって、一部ハンナ・アーレントの『人間の条件』をヒントにしたので、それっぽいところを抜粋します。


 人びとは活動と言論において、自分がだれであるかを示し、そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうして人間世界にその姿を現わす。しかしその人の肉体的アイデンティティの方は、別にその人の活動がなくても、肉体のユニークな形と声の中に現われる。その人が「なに」(”what”)であるか──その人が示したり隠したりできるその人の特質、天分、能力、欠陥──の暴露とは対照的に、その人が「何者」(”who”)であるかというこの暴露は、その人が語る言葉と行なう行為の方にすべて暗示されている。それを隠すことができるのは、完全な沈黙と完全な消極性だけである。しかし、その暴露は、それをある意図的な目的として行なうことはほとんど不可能である。人は自分の特質を所有し、それを自由に処理するのと同じ仕方でこの「正体(フー)」を扱うことはできないのである。それどころか、確実なのは、他人にはこれほどまではっきりとまちがいなく現われる「正体(フー)」が、本人の眼にはまったく隠されたままになっているということである。ちょうどこれはギリシャ宗教のダイモンの如きものである。ダイモンは、一人一人の人間に一生ずっととりついて、いつも背後からその人の肩を眺め、したがってその人が出会う人にだけ見えるのである。

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