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 自分の考えていること、思っていることは、自分が考えたくて考えている、思いたくて思っているのだろうか。考えさせられている、思わされているのではないか。あるいは問い方を変えれば、犯罪者は果たして本当に「悪い」のか。犯罪者が罰せられる正当な理由は、犯罪者が「悪い」からなのか。
 つまりこの文章では、自由意思というものがあるか、について考えます。

 人が殺されます。人が殺される、という出来事は結果です。この悲惨な結果を生み出した原因にあたるものが「悪い」ということになります。原因が悪い。異論はないと思う。
 一般的な考え方では、人を殺した人間(まさにナイフで人を刺した人間)が原因ですから、彼は悪い人間です。であるから、ここに彼が罰せられる正当な理由が発生します。悲惨な結果の原因である彼は悪いから罰せられる。
 しかし、果たして本当にそれでいいのでしょうか。
 原因と結果というものは無限に連鎖しています(していきます)。原因が結果を引き起こし、その結果が再び原因となって次の結果を引き起こし、さらにその結果が原因となってその次の結果を引き起こし……という具合です。
 「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざがある。風が吹くと土ぼこりがたって目に入り盲人が増える。 盲人は三味線で生計を立てようとするから、三味線の胴を張る猫の皮の需要が増える。 猫が減るとねずみが増え、ねずみが桶をかじるから桶屋が儲かる。 したがって、風が吹けば桶屋が儲かる。
 これはまさに原因と結果の連鎖という感じです。最後の「桶屋が儲かる」という結果は、それと一見全く関係のなさそうな原因「風が吹く」によって引き起こされている。
 どんな事象にも必ず原因があります。
 僕は(今のところ)、人を殺すなんてとんでもない! とてもとてもできたもんじゃない、ナイフで人をグサリと刺すなんてそんな恐ろしいことできやしない! という価値観を持っています。しかし、犯罪者は現にそういう価値観をもっていなかったから人を殺したわけです。では、そういう価値観を持つか持たないかはなにが決めているのか。なぜ、僕は犯罪者ではなく僕で、犯罪者は僕のようにはならず犯罪者なのか。
 それは例えば、幼少期にどういう教育を受けたか、が関係しています。どういう家庭環境で育ったか、どんな親に育てられたか、です。あるいは、近くに住むヤクザとつるんだとか、悲惨な出来事が精神的に影響を及ぼしたとかかもしれない。遺伝子的なものもあるのかも。というふうに、犯罪者が人を殺すことの原因はいくらでも考えることができます。
 「人を殺そう」という意思は、その人の人格から生じます。それじゃあその人の人格はどこから生じるのか、ということを考えたときに、その人の人格形成はその人が行うわけがありません。人格形成を行う人格というものがそもそもないからです。つまり、その人の人格形成は、その人ではないなにかに一〇〇パーセント委ねられている、ということです。
 人格というものは組み合わせのようなものだと僕は思っています。その人の見たもの聞いたこと会った人がその人の人格を形成するわけですが、なにを見るか聞くか誰と会うかは一人一人全く異なります。それらはランダムでしかない。自分では選べません。それらが誰にも把握できない(神様にしかわからない)レベルで複雑に絡まり合い、人格というものができあがる。(さらに、遺伝子も染色体の組み合わせでしたっけ?)つまり、すでに世界に存在しているものをパーツとして、それらが新たに組み合わさることによって、新たな人間、現在過去未来に生きるその他のどんな人間とも異なった人格を持つ人間が形成されるのだ、と。
 例えば、あなたは「私がアメリカに行きたい、と思ったから私は自由の女神を見ることができたのだ。自分で自分の見るものを選ぶことができる!」と主張するかもしれません。しかし、なぜ「私がアメリカに行きたい」と思ったかを、さらに辿ってどんどん辿っていけば(原因と結果の連鎖をどんどん遡っていけば)、やはり自分ではないなにかを原因としていることに気付くはずです。
 この世界はランダムの積み重ねでしかない。そして僕たちは当然その世界の一部でしかない。
 そうであるならばやはり、自分の人格形成を行うのは自分ではない。僕が僕であって、あなたがあなたであって、犯罪者が犯罪者であることは、その人本人の意思によって、その人本人の選択によってそうなっているのではなく、どこまでもどこまでもその人ではないものに依存しているように思えて仕方がない。
 したがって、犯罪者が「人を殺そう」と思うとき、本当は「人を殺そう」と「思わされている」だけなのではないか、そもそも、なにかを「思う」というのは全て「思わされている」という言い方が適切なのではないか、と僕は思うわけです。いや、思わされているわけです。

 それじゃあ、犯罪者を罰するのに正当な理由はないのかというと、僕はそうは思いません。
 抑止力として、犯罪者を罰することは正当化されます。人を殺したら罰せられるということにしておけば、当然、犯罪者の数は減ります。つまり、「人が殺される」という結果を引き起こす原因を取り除くために、予め法律を作っておく、というわけです。その方が、全体的に見ると、悲しみが最小限に抑えられるからそれは正当化されます。
 であるならば、犯罪者が罰せられることは、なんて遣る瀬無い出来事なんだろうか、と僕は思います。犯罪者はなにも悪くないのにも関わらず、犯罪者は悪いということにしておけば犯罪が減るから、犯罪者は悪いとするしかないに過ぎない、と。犯罪者に対して怒りや憎しみを抱くべきではない、とすら思えてきます。変な言い方をすれば、社会秩序のために罰せられてくれた、と考えることだって。
 いやいや、まだ腑に落ちない点があります。本当に理性的な判断によって「犯罪者は悪くない」に結論づけられるのであれば、一体なぜその考え方は一般的ではないのか。僕は、深く考えれば考えるほど「犯罪者は悪くない」と思えて仕方がないのに、なぜ最初はそんなこと思いもしなかったのか。
 それは道徳があるからだろう、と僕は思っています。実際に犯罪者は悪くないとしても、道徳的には「犯罪者は悪い」ということにしておくことは、やはり抑止力として有効です。なぜなら、国民が「犯罪者は悪い」と思っていなければ、選挙をして選ばれた国会議員の作る法律の刑罰が軽くなり、抑止力が弱まり、犯罪が増えるかもしれない。だから僕たちは学校でそういった道徳を学ぶ、あるいは同じように子供の頃に道徳を学んだ周囲の大人からそれを教わる。道徳はこれだ、これが正しい、なにも考えるな、君が考えれば考えるほど抑止力が弱まってしまうから、という具合に。そしてそれは十分大きな価値を持ちます。実際に抑止力がないと犯罪は増えてしまいますから。
 しかし一方で、それなら思考停止をして道徳を信じるのが良いのか? というと、必ずしもそうではない。道徳教育を行うのは政治です。つまり政治というのは、単に法律を作るだけではなく、国民の意思をも左右することのできる力を持っています。暴力を行使し強制的に国民を従わせるだけではなく、道徳教育によって国民を自発的に従わせることができてしまいます。国家権力が暴走したときに、道徳教育によって、国家が「あいつは危ない考えを持っていて人を殺しそう」と判断して、なにもしてない人に、殺人罪と同じくらいの刑罰を与えることだって正当化されるかもしれないのです。それは違う! とあなたは思うかもしれません。なにもしてない人は明らかに悪くない! と。しかし理性的に判断をすれば、「犯罪者ですらも悪くない」という結論に至るはずであった。つまり、「それは違う!」という価値観がそもそも、教育によって「犯罪者は悪い」という道徳を信じた結果なのかもしれない。そして実際に、戦時中の日本では、道徳教育として愛国心を持たされた国民によって、国に逆らっただけで人が逮捕されることが正当化されていたわけです。しかも彼らは道徳を学んだ後、考えることをしなかった。なぜなら、戦争の準備で忙しかったからです。なんてたって、総力戦ですから。生産性を上げないといけません。

 では、現在に生きている僕たちはどうすればいいだろうか?
 僕たちが持つべきものは、おれは絶対にそんなことはしない! という覚悟ではなく、おれもそうなったかもしれない、いや、もうなってしまっているかもしれない、という自覚です。僕もあなたも、もしナチスドイツに生まれていたとしたら、ユダヤ人を迫害することを正当化しています。同じように僕たちは、今もなにかを正当化しているかもしれない。あるいはこれから正当化してしまうかもしれない。
 そうであるならば、考えなければいけないのではないか。手を止めて、じっくり考えなければいけないのではないか。それは社会のためではない。政治を変えるためではない。選挙になんか行かなくたっていい。しかし、僕たちが人間らしくあるために、考えることだけはした方がよいのではないか。僕は僕のために、あなたはあなたのために、考えなければいけないのではないか。

 小沢健二の『流動体について』という曲の歌詞、いいな、とか思いました。

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